2010年3月28日日曜日

神道

また無責任で根拠の無い発言をだらだらと続けることにする。

以前、KJクラブで知り合った韓国人から、日本の神社はお寺とどう違うんですか?と質問された。そんな質問を受けるなんて考えたことも無く、聞けば韓国には神社が無いと言う。日本が戦前の皇民化政策で日本の神道を韓国人に強制する為に、日本政府が韓国の各市町村全てに神社を建てさせたらしい。戦後成立した韓国政府によって日本政府が作らせた全ての神社は跡形も無く破壊されたそうだ。日本にいる韓国人は、日本の言論統制と信教の強制に対する憎しみを、日本人一人一人に思い出させたいのかも知れず。

確かに神社と寺院は似ていて、お寺と言ったら仏教の宗派が管理・運営している所で、神社はそうじゃないとしか答えられなかったけれど。例えば日本人でも間違え易いのは豊川稲荷。「稲荷」と言ったら大抵日本人が思い出すのは狐色の油揚で包んだ稲荷寿司か、狐にまつわる霊を祀る赤鳥居の神社で。稲荷と聞いて寺院を思い出す人は少ない筈だが、ともかく豊川稲荷はお寺である。

仏教伝来から国家的に仏教の布教が推進され、神社でも仏像崇拝を取り入れ仏教経典を唱える神社まで現れ、神社と仏閣が混在するようになったのだと思う。実際に現在でも仏教のお経を唱える神社が存在するし、スサノオの命は摩利支天だし、豊穣の大国主命は密教の大黒天だったりする。(太陽になぞらえられた天照大神は日本という国名に反映され、国旗にも象徴化され、戦争に利用された国家神道を憎む人々からは現在でも攻撃の対象にされているけれど。)まるで日本の神々が仏陀の化身だと言わんばかりに神仏が混合させられていたのである。明治時代に入ってから、神社に入り込んだ仏教を神社から排除するように指令が下ったが、厳格で保守的、そして人道的な神社ではこれに従わず、今でも神社で仏教の崇拝を続けていたりする。

靖国神社参拝問題について言えば、日韓の文化の違いを巧みに利用して、韓国の世論を上手く煽っているようにも感じられる。日本にしか無い神社は、韓国人にとっては、ただでさえ奇怪な存在でいかがわしい。しかも昔はそこに祀られた「神」が諸外国との戦争を正当化していたのだからしょうがない。「何やら訳の分からない場所に参拝しちゃって怪し過ぎ」なもので、そもそも神社の性質を全く知らない韓国人が、とめどなくその参拝について攻撃し続けているのは面白い。

神社って知ってる??と聞いてみれば分かるけれども、大抵の韓国人は神社を知らない。神社と言ったら戦前に日本政府が作らせた日本式の神社しか意味せず、戦後跡形も無く破壊され、残っている神社は皆無である。韓国にある神社に近いものを探して見ても、韓国には神社に類似したものが無い。それでも日本の神社は朝鮮半島からの渡来人が生み出したという説がある。これを韓国人に伝えると非常に遺憾である、そんなことは有り得ないという反応をする。日本の支配下で自分たちを苦しめて来た日本の「神」がその昔、朝鮮半島から渡った人によって祀り始められたなんて考えるのは有り得ないのだろう。日本の「神」は自分たちの先祖とは無関係だと思いたがる韓国人が圧倒的に多い。(2011.9.18追加: 流用禁止だそうだが、「日本とユダヤのハーモニー」の第四部では、日本の神がイスラエルからやって来たと言う詳しい説明が見られる。これを読むと韓国人が、自分たちの先祖と日本の神は無関係だと言い張る理由が見えて来る。) 

しかし元々日本、特に原住民(アイヌ)の社会には祖霊崇拝を主流とする神道は存在していない。稲作技術の伝来と共に、それを指揮する渡来人が主になって政(まつりごと)、ついでに「祀りごと」が始まった筈なのである。原住民のアイヌは自然界にある人間以外の霊魂を「カムィ」と呼んで崇拝し、特別に人間ばかりを崇拝する人間中心の文化は形成していなかった。しかしアイヌ語の「カムィ」の発音がそのまま崇拝の対象として現在の神道に引き継がれている。これはアイヌの人々が自分の言葉でそのまま渡来人の祀る霊を崇拝するようになったことを意味するのではないかと思う。
(※お詫びと訂正 : 大野晋著『日本語の起源』によると、アイヌ語研究者の金田一京助ばアイヌ語に日本語との言語の対応を見出しておらず、稲作の文化及び相当数の基本単語(500語以上)は、南インドのタミル人がもたらしたと言う。弥生時代以前の長い船旅で、タミル人は南インドから韓国にも渡り、日本語に伝わっていない基本言語をそのまま韓国語に残している(아빠・오빠等)。タミル語の日本・韓国への影響については大野晋著『日本語の起源』をお読み頂き、無知なreechoの書いた間違いについてはご容赦頂きたい。)―[青文字部分は2010年7月8日に追加]
ひょっとすると渡来人が、自分たちの信仰を土着民に分かり易く教え広める為に作ったのが神社だったのかも知れない。韓国には別段山岳宗教と呼ばれるものは無いけれども、多くの人々は勝手に山を崇拝し登山する。山登りを趣味とする人のパーセンテージは日本よりはるかに高い。日本人の場合、神社という形式が無ければ、とりたてて山の霊魂だけ特別に参拝することは無かったかも知れない。韓国に神社が無いのは、形式が無くても日常的に自然に崇拝するからで、逆に日本人(原住民)は神社という特別な形式が無ければ渡来人の「神」を拝まなかった可能性がある。ひょっとするとこの頃から既に本音と建前を別にして形式を重んじる「ハレとケ」の日本文化が始まっていたのかもしれない。

ここで考えて欲しいのは、現在に残されている日本と韓国の文化の違いである。朝鮮民族でしか見られない"제사"という文化。4代前までの先祖の慰霊について年8回、長男の家に親族が集まって夜中の12時から夜明けまで行うという、日常生活に支障を来たす厳しい祖霊崇拝の文化である。単に韓国で儒教が広まったからという理由だけでは、ここまで厳格な祖霊崇拝の現存は説明されないのじゃないかと思う。ついでに言葉について言えば、韓国人は自分の身内について常に敬語・尊敬語を用いる。身内について謙譲する日本人とは対照的だ。アイヌの人々が人間(身内)ばかりを尊ばなかったのと同様に、現在でも日本人は身内を尊ばずに謙譲する。韓国人は身内を神様のように尊重して身内の為に尽くすが、日本人は無私無欲を美徳とし、「滝行・切腹・自衛隊」やらで身内とは言い難い「神」に自分の命を捧げるのである。韓国には熊にまつわる神話によって、熊を神として崇める風潮があるけれど、熊の神様に命を捧げることは恐らく無いだろうと思われる。

尊重する対象・崇拝するものが変わるとここまで異質な文化を形成するのかと思う程、その文化の差異は大きい。良いか悪いかは別として、ともかく韓国人は自分の身内を尊重し、日本人は身内を謙譲し、自分から遠いものを尊重する傾向がある。同じ祖霊崇拝と言っても、どれだけ遠い先祖なのか想像もつかない程に遠い先祖を、我々日本人は当たり前のように崇拝する。ひょっとすると神々の崇拝が始まった大昔には、それほど遠い親戚では無かったのかもしれないが。

私の母と母の妹は、アイヌの顔立ちにどことなく似ていて、多分アイヌの遺伝子が濃いんじゃないかと思う。そしてともかく文化的に全く身内を大切にせず、上下関係も気にしない。

韓国と日本を共通項で結ぶとすれば、どちらも仏教の影響が強いということか。"제사"は儒教の文化だと言うのに韓国では「法事」として位置づけられ、仏教徒が行ってキリスト教徒は絶対にやらない。儒教が仏教と合流しやすい性質のものだったからだと思うけれども、祖霊崇拝を主とする日本の神道が難なく仏教に合流してしまったのも、やはり性質的に融合し得るものだったからだと思われ。そもそも神道って、仏教伝来以前の祖霊・先祖供養だったんじゃないのか、と。原始仏教には具体的な先祖供養の様式は存在しなかったらしいけれど、ともかく神道の祖霊崇拝は、今で言う仏教の先祖供養・慰霊供養とあまり違わない性質のものであった可能性はある。たたりがあるから神社を作ったと言われる神社も多く、たたりがあるからお寺で供養したと言うのとその建立の理由として大して違わない。だから、靖国神社にどんなに罪深い人が祀られていても、たたりが無いように慰霊することに何ら矛盾は無く、我々がこだわって犯罪者と非犯罪者を区別して祀ることにもさして意味が無いのである。

元はと言えば神道も仏教も「慰霊」が目的ということに着目して頂きたく。神社に一般人が祀られていることに違和感を持つ人には、それはもう、神社は仏教伝来以前の寺院であり、お寺と区別がつかない程に慰霊に関して同等であるということで……。

2010年3月9日火曜日

ローザンヌ国際バレエコンクール





2010年は街にいる普通の人が突然踊り出し、そして何食わぬ顔でまた大衆の中に散って行く「何気にローザンヌ」がコンセプトの様子。その意味で、最終日の上海舞踏学校の出し物は、何気無さが抜きん出ていて見応えがあった(⇒中文記事)。男女の絡みがねっとりした雰囲気で、体型が若干ダンサーらしからぬ上海舞蹈学校学生们の演技は、先月まではFinale du 38ème Prix de Lausanne (02:53:59)で115分目から137分目まで20分以上に亘って見ることが出来た。しかしいつの間にかその部分が削除されていて、全体のビデオの長さも30分以上短縮されてしまっている。中国から「消してくれ」という依頼でも来たのだろうか。

私がこの国際コンクールが「臭い」と思う理由は、主催者側のビデオブログで個人的に取り上げられる人から上位入賞者が出ないことだ。つまり取材されたら上位入賞出来ない様に見え、コンクールが始まる前から既に入賞者を決めてあるんじゃないか、と疑ってしまうのである。初めから決まっているのに何故わざわざ審査されるんだよ!という憤慨があっても良いと思うが、主催者側から言えばコンクールと言うより公開レッスンを兼ねた祭典で、とりあえず見世物として楽ませるつもりなのだろう。

現地の情報によれば、
今年はスイスが中国と国交を結んだ60周年を記念し、決勝戦の最後の日曜31日に上海バレエスクールの生徒たちが公演を行う。また以前ほぼ毎年審査員には日本人が1人参加していたが、今年は中国から「中国ナショナルバレエ( NBC ) 」の校長ツァオ・ルエング氏が参加。
だそうで、中国への力の入れ方が半端じゃなかったらしい。しかし今現在、私が知る限りでは、どこを探してもその上海舞蹈学校の出し物が見られない。チャン・ツィイーのSAYURIが中国で放映禁止になっていたことは有名だけれど(私も彼女の動作はくねくね動き過ぎて気持ち悪かった。人形程で無くてももう少し大人しくして欲しく)、まさかバレエまで放映禁止なんて考えられないが。ローザンヌ国際バレエコンクールの内容について記した中国語の記事もなかなか見つけられず、名誉あることだと言うのに中国ではまだ、バレエすら「猥褻」で括っているのではないかと疑ってしまう。

や、うちの近辺というか、静岡県(とりあえず日本)のど田舎でも、バレエなんて言ったら「オエエッ気持ち悪い」と言う子供が多かった。今はどうだか知らないけれども、少なくとも私が子供の時には気取り過ぎていて付いて行けないと言うか、文化的に異様な物として受け入れられない人が圧倒的に多かった様に思う。裸体を死体と同じくらいに嫌悪する中国の場合には、露出度の高いバレエはまだ「見る物ではない」部類に属するのか。中国で洛桑国际芭蕾舞比赛の知名度が上がり、志す中国人が増えることが期待されていても、まだ世間一般には異次元ということか。中国にはバレエを専門に教える中・高等学校がいくつかあるらしい(北京の募集要項)けれども単なる趣味やお稽古ごととしてバレエを続けている人は極めて稀な様で。日本でさえバレエはあまり庶民的とは言えないし、見る人の層も限られているし、中国でいきなりバレエを広めろと言うのも無理かも知れない。遠い親戚(reechoの父の兄の嫁の姉の夫)も、最近は中国・韓国の台頭が目覚しいとか何とか言いながら、かこつけてアジアフルート連盟の会長になったりしているが。バレエでもやはり中国の台頭は見逃せず。しかしそれにしても洛桑に関する中国語の記事は少ない。

Prix de Lausanne 2010 Video Blog : Yu Hiu Tung


798芸術区では無防備に等身大の半裸人形晒せるんだし、そのくらいの無神経さがあればバレエぐらい解禁出来る筈だが。
しかし私には未だこれを芸術として見る人間の価値観が分からん……。政府の文化的弾圧への対抗か。もしや破廉恥だったら何でも芸術だと思いたがっているとか。
798芸術区でしか見られそうもない奇怪な猥褻物は、破廉恥な物を芸術と見做す外国人に対する嫌味で展示されていたりして(笑)。

素人のreechoには、どんなジャンルにしても芸術の審査基準は皆目分からない。今回三位入賞の佐々木万璃子さんの場合、今年の1月上旬に行われた第13回NBA全国バレエコンクール中学生女子の部では5位に終わっている。審査員や審査方法が変われば簡単に順位も変わるのか。日本国内のコンクールでも海外留学の為の奨学金が付いて来るけれど、金持ちのお嬢さんなら自費で勝手に留学してしまうだろうし、留学生活が自分に合うとも限らないからか、スカラシップ賞を受賞しても留学を辞退する人もいるらしい。コンクールの審査基準は勿論不可解だけれど、人間の価値感って本当に分からない。