2010年8月28日土曜日

児童虐待

何が虐待かって、普通に厳しくしつけていたら虐待と言われます、とか言うのがありそうな気がするんだが。reechoも8歳くらいまでは毎週の様に祖父から殴られるとか蹴られるとか、泣き叫ぼうが何しようが言うことを聞くまで徹底的に叩きのめされて来たし、それが虐待と言われたら分からず屋をどうやって従わせるのか知りたいくらいで。特に活発で我侭なreechoの様な子供ならば、話しても言うことを聞かないのは日常茶飯事で、言葉で優しく注意するだけで大人しく従う子供しかこの世に存在しないかの様な、幼児虐待徹底処罰はどうも難しいと思う。
お蔭様で高校入学早々に、教科書ガイドを教科書と間違えて学校へ持って行き、数学の時間に教科書だと思い込んで開き、先生からいきなりその教科書ガイドで頭を叩かれて即刻自主退学してしまったreechoなのだが。幼少期に叩かれ続けて暴力に対して免疫が出来て我慢強くなっていたのかと言えば、暴力に対するアレルギーが発生していたと言うか、ある意味暴力に対して必要以上に反逆的になっていたのも情け無い話で。話したことも無いのにreechoが「話しを解する人間に見えない」と勝手に判断され、即座に暴力を振るわれるのも至極迷惑な話なのだけれど。教員が「reechoが怖そうだったので自己防衛でした」と言うならそれなりに許せるところ、問題なのはともかくreechoが誰から見ても明らかに阿呆なことなのである。

それで、暴力で問題にされるのが特に、片親と無職、パートタイマーに派遣社員、或いは低学歴・低収入の社会的地位の低い人ばかりと言うのも問題だと思う。学校の先生等の社会的地位が比較的高い人は問題にならず、社会的地位が低い人間ばかりが「指導対象」としてマークされるのである。地位の高い人及び金持ちは、名誉が傷付かない様に更に権力を振るうことが出来、逆に社会的に権力を振るえない弱者ばかりが幼児虐待に走るのは、あまりにも弱肉強食で哀れだと思う。社会的弱者は危険だから子供を作らない方が良いと言うのも何だか皮肉である。

例え貧乏人の子供は貧乏人のままであり続けるとしても、子供に頼らざるを得ないと考えられる貧乏人ほど子供を生みたがるし。裕福で計算高い人ならば、自分より貧乏な家と繋がったら損だから結婚しないとか、お金さえあれば老後子供の世話になる必要は無いから、子供はいなくて全然構わない、極論すれば世話の掛かる子供なんかいない方が楽な訳で。自分より貧乏な人と結婚し、子供を作って損をしないのは、どうしても跡継ぎが必要なお家柄か、或いは家庭と子供によって豊かになれる人だけである。子供で得をしようなんて言うのがそもそもおこがましいと言ったらそれまでだけれど、その人が人間的にどれだけ豊かになれるのか、金銭的に換算出来る問題だけでは無いことを期待したい。

ただし、貧富の差よりも精神的差別が激しい日本では、弱者が餌食になる可能性が高いから児童も危険だとは言えると思う。我侭な社員を入社させない企業が多いのと同様に、言うことを聞かない子供を育てたくない日本人が多いことも事実である。そもそも世話をするのが面倒だし、反逆行為を恐れているのは保守的な企業ばかりでは無い筈だが。それで一体日本人がどの様に子供を増やし得るのか疑問である。弱者と平等に対等に接することが出来る日本人も決して多いとは言えず。言って見れば児童虐待も権力者の都合による一種の差別の表現であって、差別意識の強靭さを常日頃あちこちで見せ付けられて来れば、日本人の根強い弱者蔑視及び虐待が無くなるのを期待するのは、そもそも無謀ではないかとさえ思う。

2010年8月15日日曜日

よそ者

昨日夜8時からのNHK総合テレビで-日本の、これから-「若者が考える日韓の未来」を見た。20人ずつくらいの日韓の若者がスタジオで向かい合って、日韓の政治・経済・文化・歴史等について討論する番組で、結構面白かった。韓国の文化について、韓国では、男性同士が一つのアイスクリームをかき混ぜながら食べ合うとか、同性愛者でも無いのに抱き合って同じ布団で寝るとか、日本では家族でもそんなにべたべたしないと思う様なことが紹介され、親しい間柄の人間関係が、韓国では日本人の考える家族以上に親密だと思った。遠慮の無い文化と言ったら良いのか、「親しい人は皆家族」という発想が、よそよそしい人間関係を嫌うらしい。韓国人から見れば友達と共有しない人は親しみが無い、親しい付き合いを嫌がっているみたいだと思うらしく、食堂で一人で食事すると何て寂しい人なんだと哀れまれてしまうらしい。一緒に食事しても割り勘にする日本人を見て不思議がる韓国人について、京都大学の小倉紀蔵教授がコメントしていたけれど、日本人と違って割り勘をしない韓国人は「蓄積型」と言われるそうで、直ぐに借りを返さずに貯め続けたお金は、いつか自分が豊かになってから還元すれば良いと考えられるらしい。日本人は、人に借りを作ると極端に恐縮してぎこちなくなったり、借りを返すまでは頭が上がらないと思ったりするのだけれど、韓国人は遠慮の無い関係にこそ親しみを感じるらしい。

韓国では日本の「勉強する」を「공부하다(工夫する)」と言い表すだけあって、さすがに皆が皆それぞれに工夫すると思う。さまざまな工夫の結果、急激な変化を伴う企業改革や政治改革、体制の変革が出来るのかなぁと思ったりする。韓国人特有の短気な性格、「パルリ、パルリ(발리!발리!)」と言う気ぜわしない活動方針によるのかとも思うけれど、韓国人は静かな日本人に比べて行動派が多いと思う。日本の様に組織が硬くないのもそれぞれの気ぜわし無い性格と不断の工夫によるのかも知れない。中国語で「無理強い」を意味する日本語の「勉強」が、もし「工夫」と表現されていたならば、日本人はもっと楽しんで一人一人が工夫する様になっていただろうか。

韓国人は、人前で自分の意見を述べることが好きな様で、韓国の授業はやたらに個人のプレゼンテーションが多いらしい。日本人が控え目で目立たないことを好むのに対し、韓国人は人前に出るとか目立つことが好きな雰囲気がある。日本では、大人しくて従順でなければ、しつけられていない子供と思われる様なところがあって、大人しいことが大人らしく、それこそが人間的成熟だと考える文化がある。しかしこれを改めない限り、活発な意見発表も意見交換も喧嘩も、皆「五月蝿くて子供っぽい」と感覚的に片付けられてしまうんじゃないかと思う。島国という地理的条件から部外者との交流も乏しく、仲間内だけで全てを完結させる「村意識」も強い。その点で中国人は部外者との付き合いに慣れていて、変わり者の扱いが上手い。reechoも変わり者として、変わり者の扱いが上手い中国人にどれだけ救われたか分からない。日本人が中国人程に、部外者及び変わり者と付き合うのが上手になるのは歴史的に不可能としても、これからの国際社会で「変わり者及び部外者絶対お断り」を貫くのは結構難しいんじゃないかと思った。

中国備忘録を読んで気になったのが「人と違う道」の②と③。留学すると協調性がなくなると信じられているのか、世話するのが面倒だと考えている日本企業の器の小ささがみみっちい。「外の経験を持っていると、会社内の矛盾とかに気づきやすくなり、将来反乱分子になりかねない、と恐れている。」「何も知らないまっさらな人間の方が教育(洗脳)しやすい」というところ。ははぁ、立派な経歴を持つ人でもそんな風に思われているんだなぁ~と嫌々ながら納得させられてしまった。最近テレビで京都大学の教授が、「最近の若者は留学を嫌がる」とぼやいていたらしいけれど、留学すると日本で就職し難くなると言うのはデマでは無いらしい。

日本では向上心の強い野心家が生意気だと思われ、保守的な組織では潰され易いらしい。流動性の無い日本の社会が、既成の習慣に刃向かう人間に嫌悪感を抱き易く、敷かれたレールから外れる人間を企業側がどれだけ嫌悪しているか、反逆を心配し、被雇用者を従順に従わせる為だけにどれだけ神経をすり減らしているのかが窺われる。「勝手に工夫しない人」「枠からはみ出さない人」「自分の意見を言わない人」が日本の企業にとっては重要らしい。ただ自分の手足になって働いてくれれば良く、頭の意思に背いて勝手に手足が動き出してしまっては困るのだ。別に大企業でなくても、一般の企業ではただの手足が必要なことが多く、自分の頭で勝手に動かない、常に上の意見を伺う謙虚な姿勢が日本では重要らしい。向上心が強くて自己主張の強い人には外資系が人気と言われているけれど、hihi64さんはまたどうして日本に拘られるのか、意外に強固な保守性で書かれているhihi64さんのBlogを、これからも楽しく拝読させて頂きたいと思う。

2010年8月9日月曜日

仲間外れ

日本人は、組織の中に入ってその組織の一部として働くようになると、自分が所属する組織を客観的に分析することが出来なくなるきらいがある。その組織の一部であることに不満を持ったらそこに存在することが苦痛になるだけだから、その組織の良い所だけを見て自分の立場に満足しようと努力するのではないかと思う。現状に甘んじられないならば、自分がその組織を内部で変えるか、その組織から外れるか、つまるところ、仲間はずれになる以外に道は無くなるのである。日本人、仲間はずれに弱い。上下関係が厳しく、服従を強いられる組織において、もしその組織に逆らうことを言ったら、いじめに遭っても不思議は無い。日本での仲間はずれは単なる孤立では無く、組織の存続を脅かす者への制裁・リンチという「反逆者撲滅運動」が付いて回る。なぜ皆が一斉に同じことをしなければならないのかと言えば、稲作によって生活を営み続ける以上、皆で一斉に仕事をするのが最も効率が良いからである。一糸乱れぬ共同作業を旨とし、団体行動を乱す者を叩き続けることによって、初めて組織の生活が安定的に営まれると考えられる。組織から外れる者を厳しく取り締まらなければ生命の危険を感じるのが日本人である。仲間から外れたら生きていけないと思う日本人が仲間はずれに弱いのは、歴史的に生半可な理由に因るものでは無い。

韓国人は、他の人と一緒でなければ外食しない。日本人が一人で喫茶店に入ったら怪しまれて警察を呼ばれ、事情聴取を受けたと言う話が、韓国の政治経済に関わる対談形式の本(名前を忘れた)の中にあった。韓国では、一人で外食する人が怪しまれるのである。食べ物を共有するのは当たり前で、残飯の再利用が問題になることがあるらしいけれど、ともかく韓国人は、食堂で孤独な食事をしない。同性同士が手を繋いで歩くのを見て変だと感じる日本人のreechoだけれども、日本人よりも韓国人の方が、連れ立って行動するとか、人と物を共有することを好む。仲間意識や共有する感覚も日本人より強いだろうと思う。親しい人と物を共有しない、或いは人と連れ立って食事をしないことは、韓国人にとっては「異常」な光景なのである。仲間はずれだから異常なのではなく、ただ一人で食事をすることが異常な事態と見られるらしい。同じ感覚を共有しない人間には分からない、暗黙の常識がそれぞれの組織にあるのだと思う。

台湾へ行って見て、初めて現在の日本にあまり精通していない台湾人と知り合い、一般の台湾人が日本をどう思っているか知ることが出来た。台湾人が日本人をどう思っているかと言えば、天皇を崇拝し、その信仰を自分の支配する国の人々に強制し服従させ、日本が一番でその他は劣等であるという強固な信念と確信に満ちた、威張り腐る石頭である。日本人は、負けるという疑いを絶対に持ってはならなかったのである。
戦前の台湾人或いは朝鮮人にとっては、信じたくも無い日本の神への信仰を強制され、天皇に対する絶対服従を強いられ、しかもその組織からは逃げることが許されなかったという事実がある。極端な例を挙げるとすれば、その支配は台湾人・朝鮮人にとって、現在の日本人がオウム真理教への入信を強いられ、オウム真理教からの脱退が許されず、極悪非道な殺戮に加担させられたのと同じくらいの衝撃と怒りを持って非難されると思った方が良い。例え日本人によって自国に富がもたらされたという事実があったとしても、その支配による精神的苦痛を考慮した場合、現在の日本人が「自分は潔白だ」等と言おうものなら、浅原被告の「私は潔白だ」の発言を連想させる、無責任で残酷な発言と思われても仕方なく、また「まだ天皇を崇拝しているんですか?」と平気でreechoに聞く台湾人の中には、それ相応の厳しい反日感情があると考えられる。

しかし逆に、天皇への崇拝を強制した日本人が何の罪も感じていないのも当然である。それが自分たちの信仰であり、強制することを自分たちが強制されていたのであり、そうしなければ殺される日本人に何を言っても無駄である。命懸けの信仰には、それ以上に命懸けの抵抗と攻撃が無ければ、うっかり従わされてしまうのではないかと言う恐怖が、まだ台湾人の心の底にはある。だから現在も台湾人は、強烈な頑固さで執拗に、日本人の信仰と上下関係に対抗し続けるのである。考えて見れば、現在の改心した日本人がどういう考えであろうとも、過去に被害を受けた人々にとっては関係が無い。彼らにとっては被害を与えた日本が全てなのである。組織に服従させようと頑張った日本人が、台湾人・韓国人にとってどれだけ迷惑だったか、そして日本人にならなければならなかった台湾人がどれだけ苦痛を強いられていたか、皮肉にも日本に実存する新興宗教に例を見る思いである。小学6年生で家族が一斉に入った新興宗教に、入りたくなくても自動的に入らされていたreechoがこんなことを書くのも滑稽なのだけれど。

日本の神を崇拝し、天皇に服従することを誇りに思った、完全に洗脳され、また現在も洗脳から醒めたくないと考える台湾人に対しては、日本人と同様に謝罪が必要無いかも知れない。しかし、盲目的に親日的な台湾人は別として、洗脳を受けていない或いは洗脳から既に醒め切った台湾人に対しては、日本が過去に台湾人に対して宗教を強要したこと、天皇への絶対服従を強いたこと、そして帝国主義支配の拡大に無理やり加担させたことを侘びなければならないと思う。まるで元オウム真理教の信者が侘びる様に、日本人が心から懺悔し念入りにお詫びをしても、台湾人及び元朝鮮人は納得しないと考えた方が良い。自分が信じたことが間違っていたことを認めることも難しく、そもそも客観的に日本を分析することすら躊躇われる日本人のreechoだけれども、自分の所属した組織が誤った道を歩んでいたこと、そして自分が信仰していたものが間違っていたことを認めて謝罪しなければならないと思う。間違った信仰を広めようとして迷惑を掛けた人々に、reechoは今、心からお詫びしたい。m(_ _)m 許されると思ったら大きな間違いだと思うけれども、少なくともreechoは、許されるまで被害者に謝罪を続けたいと思う。

2010年8月3日火曜日

尊厳

2010年7月25日発行の中央大学学員時報に、「中国の広告とインターネットの実態」という本が宣伝されていた。恩師が書いた本ということで見てみたくなり、衝動買いしてしまった。

「私」を「わたし」と表現したり、「です・ます調」の中に「だ・である調」を混在させたり、何だかわざとすっとぼけた感じの「まえがき」を読んで、別人が書いているのか別人に成りすましているのか、と思わず目を疑ってしまった。もう定年退職しても良いくらいのお婆さん先生だし、とやかく言うのも迷惑かと思うんだけれど。論文の内容にも校正不足と思われる脱字や「です・ます調」と「だ・である調」の混在が見られ。こちらの「最後に一言」にあるように、「今ひとつ統一感に欠けた構成となっている」のは、林惠玉先生の論文をそのまま載せているだけだからで、統一感に欠く研究内容を一冊にまとめようと頑張ったところにそもそもの問題があったのかも知れない。その突拍子の無さというか手抜き加減と言うか、適当なところが中央大学らしいと思ったreechoである。
衝動買いということで、はてな経由での購入の1人は紛れも無くこの私である。安い中古商品がまだ出回っておらず、送料を含めたら新品をAmazonで買うのが経済的かと思われ。佐川急便のメール便で注文日からたった2日で到着。大学時代を思い出して思わず笑ってしまう一冊だった。多分、このSIMPLETONさんの「臨時読後感」を読んでいなかったら衝動買いにまで至らなかったと思われ、SIMPLETONさんの素敵な文章にひたすら感謝。屈曲した精神構造を全く感じさせないSIMPLETONさんの謙虚さは、最高学府を出ていないと無理っぽい気品あふれるもので。reechoも下品な文章ばかり書いていないでこの様に上品な文章を見習いたいと思った。

在学中は、とりあえず授業でお世話になった先生の書いている本や論文は極力全てに目を通すことにしていた。別にそれで教員の性格が分かるものでも無かったけれど、研究の傾向を知っておけば、その教員独自のアプローチの仕方や、主義主張とか偏見なんかも見られるんじゃないかと思ったもので。より興味深く授業を受けられるということもあるし、嫌な授業を受ける際には、その独特な主義主張を批判的に傍観すれば良いわけで。林先生の論文は、当時の中央大学図書館にはまだ台湾のラジオ放送に関する論文くらいしか無かったように思ったけれど、歯切れが良くて勇ましくて、男性的な凛々しさを感じさせる論文だなぁ~と思ったのを覚えている。つまり、論文ではこの本の「まえがき」の様にしおらしく無いのである。
授業では、飴を配ることで有名だった。不二家のミルクキャンディーとかそんな類の甘いお菓子を授業中に生徒に1個或いは2個ずつ配るのである。単位が取り易いことでも有名だった。優しいと言う噂を聞いていたので、reechoは丁度経済学部で2004年度から可能になった第3外国語の履修で、林先生のお世話になった。外国語基礎科目における授業の自由な選択は、第3外国語でもない限り出来なかった。「まえがき」に登場する斎藤道彦先生は厳しいことで知られていて、斎藤先生の上級中国語では、授業で毎回中国語の新聞(白文の長文)を一人ずつ音読させ、つっかえたり発音を間違えると単位が取れないと噂されていた。反対に林先生は極めて易しく、どんなに出来ない生徒でも単位が取れる様、難しい問題は一切出さず、reechoが大学4年で履修した上級中国語の授業では、「調味料の宣伝を中国語でしてください」とか。辞書を使うのも自由。黒板に平たい箱を書いて「これが調味料です」とか言っている。きっと当時、先生は丁度中国での日本車とかペンキの広告についての論文を書き終えたばかりだったに違いない。些細なことで傷付くナイーブな中国人を尻目に、当時の授業を思い出しながら楽しく拝読した。

気になったのが第二章の最後。

 最後に「尊厳」と「尊敬」について,一言述べておこう。「尊敬」という感情は,他者に要求して得られるものではない。みずからの言動の高さが尊敬に値すると他者から認められた時,他者から与えられるものである。他者に対して自己の「民族の尊厳」を大切にするよう要求する人が痰でも吐き散らすように他民族を「チビ日本人」「劣等民族」,「犬」,「豚」と罵り散らし,自分の「尊厳」だけを要求して他者の「尊厳」などどうでもいいと考えるような自己中心的な主張を続けていれば,これが「中国文化」の地金なのだと思われても仕方あるまい。他者から「侮辱」されているという感覚には「侮辱」過敏症とでもいうような精神構造の歪みが認められるが,これは国際社会では滑稽と見られ,中国人と中国文化の名誉をみずから引き下げる効果しかないことを憂慮せざるを得ない。

らしい。何かにつけて他民族を侮辱すると見られている日本人が不憫なのだが。中国人や韓国人が日本人を侮辱しても、のんきな日本人は中国人or韓国人みたいに烈火の様に怒らないし。差別されたり侮辱された経験が少ないから、或いは自信があるからへらへらしていられるだけなのかも知れないけれど。侮辱に対して過敏になる程に屈辱や劣等感を強く感じられるようになれば、自分が傷付かない様、相手に自己を尊重させる様、劣悪で非道な手段を用いてでも自分に頭を下げさせようと頑張るんじゃないかとも思うけれど。歪むなと言っても、既に歪み切った滑稽な精神構造を、誰もどうすることも出来ないのではないか、と。

中国の偏った愛国心と情報統制に着目した内容で、保身の為に中国がどこまで我侭を押し通すつもりなのかと読者を心配にさせる。さすが元秘密結社系の独立運動家だけあって、綱渡りのようなスリリングな論調と正義感に満ちた中国バッシングが見物である。中国を叩いてすっきりしたい人には是非ご一読をお勧めしたい。