2010年10月31日日曜日

国際紛争

reechoは抽象的表現が好きである。記憶力も語彙力も無くて細かい事柄を示す単語を知らないので、出来る限り物事を大ざっぱにまとめた単語で説明してもらわないと話が分からない。知らない専門用語が多い書物を読めば、こんなに細かく物事をカテゴライズする必要があるのかとうんざりすることも多い。
大学で国際関係論の指定テキストだったジョセフ・S・ナイ著「国際紛争」を、久しぶりにちょっと読んで見た。

著者は、カーター政権とクリントン政権において日米安全保障関連事項に深く関わった人物だそうで、ハーバード大学で教える際に書き下ろした教科書らしい。「懐疑主義者にとっては道義的判断には意味がない。」(p.187)とか、分かりそうで分からない言葉が結構含まれる。他の専門書と同様に、区分がこんなに沢山あっても困るなぁ、と思う程に、国際政治を学ぶ上での区分方法が紹介されている。
区別する方法を知らない人が見れば、中国人も日本人も同じ「人」と思うだろうし、細かく分類すればするほど何だか物知りで賢くなった気になるのも可笑しな話ではある。人は区分と差別が好きである。ついでに言えば自分と似たものを好み易い。日本人は特に、自分と全く同じでなければ許せない人が多い。一生懸命に差別し、偉くなった気分を味わいたがる人も多いと思う。この本を読んでも、世の中には本当に沢山の区分があると思わされるけれど、p.36に少し例がある様に、徹底的に区別したがる人程、トレード・オフの関係〔両者を同時に完全に満たすことが困難である一方、完全な二者択一でもない関係〕を無視する傾向があるらしい。余程視野の広い人でもない限り、自分の主張を正当化する為に、自分にとって都合の悪い情報は消去して考える傾向がある様に思う。以下「国際紛争」からの引用が多くなってしまうが。

共通の主権が存在しない無政府状態の国際政治において、何を頼りに生きるのかと言う問いに、リアリスト(現実主義)のホッブズは、生存の為には武力に頼るしか無いと答え、リベラル派(国際協調主義)のジョン・ロックは、契約による共存が可能であると説く(p.5)。
リアリストは懐疑主義的で協力を避ける傾向があり、リベラルは信頼関係と相互依存の増大を目指す傾向があるそうだ。懐疑主義者が不信感によって「周りの主体」を敵視し、自分の身を守る為に攻撃することばかり考えるせいで、明らかにリベラルよりもリアリストの方が強くなりたがり、実際に自分が生きる手段は暴力に限ると言う点で、関わると恐いのはリアリストである。
騙し合いの文化が醸成され過ぎている中国では、人を信じないリアリストが多いと思う。彼らは契約しても契約を無視するのが普通である。誰が人を信頼し、契約の下に平和を築くリベラルに傾き得るのか知りたいと思う。それに比べて嘘をつかない誠実さで裏切り行為が少ない日本人は、思想的にリベラルに傾き易い人が多いかも知れない。しかし人を疑わない日本人が、国際社会で無防備であることを考える必要はある様に思う。この本の著者も立場的にリベラルらしいけれども、国際社会の厳しい実情を知り尽くしているからこそ当たり前の様に辛らつで、リアリストが国際政治の基本的立場といった書きっぷりをしている。国際政治の歴史を振り返れば、国家の存続及び安全保障の枢軸を担って来たのはリアリストだったのだからしょうがない。

「システム」とは相互に関連したユニットの総体のことで、国際政治システムとは国家間の「関係のパターン」のこと、そしてどのシステムについても言えることは、全体のパターンが部分の集積より重大であること(p.41)らしい。ここで言うパターンとは、「主体」が「目標」に向かって「手段」を用いる過程と結果の総体を指す様だ。

国際政治システムの「主体」は、古来は少数の国家だったが、最近は多国籍企業も主体になり得る程に経済的影響力を持ち、国家の数も20世紀後半だけで3倍に増え、主体が増加・多様化し続けている。(p.10) 
国家にとって最も重要な「目標」は、伝統的には軍事的安全保障であったが、今日では経済的目標が増大し、さすがに軍事的安全保障の目標を駆逐してしまったとまでは言えないが、軍事的安全保障が唯一の目標ではなくなったと言えるまでになっている。(p.12) 
伝統的な見方に従えば、真に意味ある「手段」は軍事力だけであったが、現在では他の手段によって目標を達成する事例が増えている。核兵器が世界に5万発以上あるのに1945年以降一度も使われていないのは、核兵器の破壊力がどんな政治目標にも釣り合わない程に強大であることが挙げられる。経済的負担や民主化による国民の反対も、軍事力を行使しない理由になっている。民主化によって全ての武力行使が防止されるとは言えないが、戦いの正当性について幅広い議論がある限り、戦争に関する憲法上の抑制と均衡が、よりよく機能すると考えられる。世界中で民主主義国の数が増えれば、少なくとも民主主義国の間では、戦争が起こる可能性は小さくなるかもしれない。ただし、新興民主主義国には、言論の自由や行政府への抑制、定期的な選挙といった自由民主主義的なプロセスを欠く大衆民主主義の場合もあり、理論化に耐えるのは自由民主主義国間の関係であって、民主主義国家全般ではない。(p.61)

らしい。言論統制があったら政府の独裁がまかり通り、情報操作でいくらでも国民を戦争に駆り立てられる様で。中国が民主化したら、軍事大国化が食い止められ、現在の軍備が形骸化することもあり得る為に、中国政府は民主化を進めさせない方針であるかも知れない。「軍事費が多すぎて貧困が止まらない」なんてことを、民主化した人民が許すとは考え難く、このままの体制を維持することが中国の最終目標であり、最大の課題であるとも考えられる。民主化したら中国は崩壊するのである。国家の存続の為にはとても民主化なんて出来ないと言うのが中国の現状だとすれば、日本もまた負けず劣らず、国家の存続の為には民主化なんて有り得ないと考えている可能性がある。情報統制にしろ一党独裁にしろ、相変わらず市民を犠牲にして続いて行くんじゃないかと思う。

システムは、その中の主体の誰もが意図しない結果をもたらしうる。(p.42)そうだ。
国家と言う枠組みの中で、その構成員である以上、その構造と運命を共にしなければならないのは実に残念なことではある。社会の構造を知り、自分の立場を明確にわきまえ、他と区別し役割を自覚することが、自分の属する社会の中で自己の役割をより適切に全うする方法でもある。やはり自分の所属する社会の中で自分の役割を適切に全うするという目標において、人間が生み出す最も大きなシステムとしての国際政治について、大学で学んだのは良い経験だったと思う。現在は、各国間の関わりの乏しかった時代における「武力による解決」が別の形態に移行しつつあるにせよ、リアリズムの思想がまだ重要な地位を占めている限りは、自分の目的達成の為に、契約の成り立たない相手に対する攻撃が選択肢として常に存在することを忘れてはならないと思う。そして攻撃が出来なければ、その主体としての存続を諦めなければならない可能性もあり、攻撃の方法についても詳しく知る必要があると思う。文明の対話とは良く言ったものだけれど、平和主義者の期待以上に国際社会は不信感と絶望に満ちている。情報統制によって不信感と絶望感を増幅させられている場合もあり、情報統制及び教育には充分に留意する必要があると思う。また対話も無ければ信頼も無く、突然自分の目的達成の為に攻撃を仕掛けるリアリストに対して、どの様にアプローチし得るのか、リアリストと平和的に接触し契約する方法はあり得るのか等、リベラルと自認するならば、積極的に考えなければならないとも思う。

話し合い及び討論が苦手な日本人は、日常的にリアリストが多いかも知れない。話し合い或いは説得による解決を抜いていきなり攻撃し、服従を強要する例が多く見られる。自分の地位が上なら絶対服従を強要出来ると信じて疑わず、相手と改めて話し合って契約する理由など皆無だと思っていることが多い。情報は常に上から押し付けるもので対等に話し合う関係が無いのも問題である。知り得る情報に差が生まれ難く、上からの情報は全て鵜呑みにするのが常識と言う日本では、わざわざそれぞれの認識を再定義することにも無頓着な人が多いと思う。意見の衝突を嫌う日本人は、意見が衝突しそうなら予め衝突し得る意見を握り潰しておけば良いと思っている節もある。明言化し得ない契約を尊重し、暗黙の了解を明言化することによる損失を避けたがる人も多い。裏での合意・談合による解決を図る秘密主義の人々がどのように秘密裏に契約し、主体も手段も目的も隠し続けるか観察するのも、同じ国家システムに属する同じ日本人としては、極めて意義のあることだと思う。秘密を共有し、秘密裏に契約を行う主体に成り得て初めて、他に漏れない利益を享受出来るならば、秘密を共有し得る主体として認識される方法を知ることも大切だと思う。組織の中でより効率的に機能するには、その組織の目標及び手段から外れるのは得策では無く。たとえ所属する組織の動きが自分の主義主張に恐ろしく反するとしても、より安全に生存する為には「組織に巻かれる」ことも重要だと思う。

厳しい社会を知り尽くしている人の文を読むと、どうしてもリアリストに成るべきと思わされたりする。ただホッブズにとっては自然環境も人間が従わせるべき脅威でしか無く、全てを人間の支配下に置くことしか目標にしていなかった様である。支配し続けたらどうなるかなんてことは視野に無く、倒し続け、征服し続けた結果、人間が生きられなくなるとは考えていなかったらしい。現在は、人類が支配し続けた自然環境が、もはや人類を支えきれなくなっている。一方的な破壊活動を続け、自然界の均衡を崩し、人間自らが生きられない状況を生じさせつつあることは、周囲を無条件に従わせたことで自分の首を絞めることになった好例でもある。地球上で人類が生息し続けられない状況を、より多くの人が把握して対策を講じなければ、地球環境システムの中での人類の生存期間は更に短くなる筈である。例え相互依存が相互の脅威を意味するとしても、人類は自然環境に依存し続け、自然環境を恐れ敬いながら、自然環境に従い続ける以外に生存の道は無い筈で。人類は、地球環境システムにおける人間の立場と限界を知り、その中での「存続」という目標を早くから設定して来なければならなかったのである。形振り構わず目先の目標達成だけを考え、地球環境を破壊し続けて来た人間が、もはや地球上で生存し続けられない等、今更言われても困ると言うか、既に改善が不可能な状態で。システムは、その中の主体の誰もが意図しない結果をもたらしうる。全く意図しなかったのは単に無関心だったから、と思われない様、自分の属し得るシステムの全貌を知り尽くし、そのシステムの中での自分の立場と限界をきちんとわきまえ、自己の生存可能性を高める努力をし続けなければならないと思う。

生存が難しいからって、各国が意地になって核爆弾を5万個も作って一体どうするつもりなのか分からず。それで、地球環境から抜け出す方法があったとしても、地球環境システムを無視した議論を続けることには、かなり無理があると思う。

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