2009年6月22日月曜日

祖父の葬式

昨日は、祖父の葬式だった。私が喪主を務めた為に、普通ではあり得ない葬儀になった。お通夜からイズモ葬祭のセレモニーホールを借りたのだが、喫煙所は要らないと言ったらそれまでホールの入り口付近に当たり前の様にあった喫煙所が突然撤去され、無料で麦茶・緑茶等が飲めるコーナーに変わっていた。すげえ早業。それとも私が頼む前から既にそんなサービスがあったのか……?
それから、火葬場での昼食(そうそう)から夕食(おたいや)まで一時間も無く、むやみに腹が満ち過ぎるという理由で、精進落とし(家の近辺では『おたいや』とも呼ぶ)をやらずに火葬場で解散することにした。遺体が焼かれて空しい思いをしている時に大量の料理を腹に詰め込む理由は無いと思ったし、死者が出た時くらい、しばらく精進したって良いじゃないのか、と。
それから、忘れっぽい私が忘れたくないという理由で、母の知り合いに葬儀の写真撮影をお願いし、沢山写真を撮ってもらうことにした。イズモ葬祭でも葬儀のアルバム作成サービスを2万4千円弱で紹介していたが、高いと言う理由で断ってしまった。全部私に撮らせて欲しい!と思ったが、喪主がカメラを持って葬儀場内を走り回るのは不謹慎だと言われ、「大人しく喪主に徹しなさい」と言うことだった。だが。しかし。カメラを頼んだ人があまりにも大人しく、遠慮してシャッターを押さないので、その人のカメラをふんだくって自分でシャッターを切ったりし。「何を考えているんだお前は!」と怒鳴られそうになりながら、どうやら自分は完全に喪主であることを忘れたかったらしいことに気が付いた。「お前がいなけりゃもっとマシな葬儀になっていたのに」という八方から突き刺さる視線を受けながら、無理してでも祖母か母が喪主になるべきだったと思ったのである。

それにつけても、私が撮影して良かったと思ったのが遺骨を掃く写真。ああ、人は、最後は骨を掃かれてしまうのかと無常を感じた。大腿骨が立派に残っていたと皆が感動していたが、そんな祖父でも最後は塵を掃かれているのである。やっぱ、葬儀場でカメラを回すのはアウトなんですかね。祖父の大腿骨の写真を残しておきたかったと切実に思う次第である。

最後まで逞しかった祖父に、ありがとう。





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