2011年10月10日月曜日

正確な常識

今日は10月10日、日本では「目の日」と言うことになっている。どうやら日本だけが取り決めているらしい。やっぱりreechoが悪人に見えてしょうがないと言う話が気になってしょうがない。reechoちゃんがお金欲しさに親の反対を押し切ってピアノを売っちゃったのでしょう?きっとお金の為にreechoちゃんはもっと悪いことをするんでしょう?とか。人に祖母の送迎を頼めばreechoちゃんが免許取り消しになる違反でもしたんじゃないの?とか。人の不幸は蜜の味、とは言うものの、こき下ろされるreechoが実際に悪ければ皆が納得して話が早い、と勢い悪事をでっち上げてreechoのせいにするのはどういう人間のやることか。ピアノに関しては、重過ぎて床が抜ける心配をする母の希望に準じたまでで、謙遜していちいち悪人ぶるreechoもreechoなのだが、ともかく悪い方向にしか噂は流れないものと思った方が良いらしい。干されるには干されるだけの理由が必要だから、と好き勝手に悪い噂を流すのはやめて貰いたいのだが。

reechoは再来週の10月23日に、日本語教育能力試験を受ける予定でいる。北京の社長から中国人の怖さを思い知らされ、他の中国人からも「中国へ逃げて来ないで欲しい」と散々ボイコットされ、もう中国に行く気を失った。先月は数十年に一度と言われる暴風雨の為、自宅の裏山の竹が屋根をバコバコに破壊してしまい(竹が水平状態にまで倒れ込んで屋根を殴り続け、瓦は屋根に土を乗せて置いてあるだけだから、竹に力一杯掃かれ続けて落ちまくり雨漏りも激しく)、reechoは翌々日から屋根から落ちる心配を顧みず(先日は実際に梯子さら2m転落したけれども怪我は無く安堵)屋根に上って補修作業をし、自分はずっとこの屋根を守れる様に頑張ると家族に誓った。家族はreechoに中国行きを思い留まらせた社長に感謝するだろうけれども、人生の目的が家を守ることだけになってしまい、日本語教育能力検定を受ける動機は無くなった。もう屋根からの転落やら癌やらで死ぬまでreechoは家を離れないだろうと思う。

けれども既に一万円で受験の申請を済ませ、受験票は届いたし、せっかく受けるなら少しは勉強しようかとも思う。試験当日、自治体の奉仕活動をサボることだけが受験動機になっている様な気もするが(なんたって田舎者は奉仕活動の為に生きてますからっ!そもそもreechoは非国民ならぬ非市民なのですっ!)、「何故なの?」と問われて「みんながそうしているから」としか答えられない非科学的&非論理的&非言語的な日本人からの脱却を試みるのも有意義ではないかと思う。日本人の「暗黙の了解」を分析&解説する作業はマジで大変である。日本語を客観的に解説する為の勉強を続けて行く間に、日本人がどれだけ説明に苦しむ厄介な習慣の中で生きているかが見えて来て、こんな七面倒な習慣を説明するなんて絶対に無理、と投げ出したい思いに駆られる。大して勉強していないから、どうせ受からない負け惜しみと捉えられても一向に構わないけれども、reechoに日本語教師は無理である。「そんなの常識です!」と何の説明も無しに頭ごなしに人を殴る日本人へのささやかな抵抗になれば、それだけで自分への慰めに成る気もするが。

台風の翌々日、村の大工さんに瓦屋さんを連れて来てもらい家の屋根の状態を見てもらったのだが、村の大工が引っ越せ引っ越せとやかましい。どうやら自分たちが改修工事を手掛けて耐震性を下げた家が人を殺すのが嫌らしい。裏山の木を全部切れとも言うが、専門業者に見積もってもらったところ、裏山の大木を一本切るだけで20万円は下らないと言う。クレーン車が入れず全て人力でやるからそのくらいは覚悟しろとのことである。崖崩れの防止だけで1千万円、安全性を確保するならば引っ越す方が安いことを大工が良く分かっているのだろう。しかし引越しは難しい。どうせ仕事をしていないのだから、reechoが家の管理の為に自分でやれることを全てやれば良い。それで、先ず裏の竹を切り始めた。すると大量の竹を処分しなければならず、勿体無いので竹で何か出来ないかと思い、暇つぶしに竹で楽器を作って遊ぶことにした。細い部分を一節づつ切り離して切り口を叩けば可愛い音が響くので、木琴ならぬ竹琴を、と思ったのだが、いかんせん湿気具合で音が変わり過ぎる。火であぶって水気&油を抜くと、まず半音は高くなる。短い竹ほどその変化が顕著で、チューニング後に乾燥が進めば又簡単に音が外れる。この世で竹琴が普及しない訳である。竹の節が微妙に湾曲していて、湾曲に音が響いてポコっと柔らかな音を立て、節が斜めになっていれば出口から最も短い距離の音が良く響くのだが、いかんせん一打で出る音に幅があってチューニングが難しい。一度短くしてしまったら長くならないから、適当な低さで妥協しなければならないが、誤って若干短くしてしまった竹を、一つ高い音に変更すべきか否か悩まされる。一体、どこからどこまでをシと認め、どこからどこまでをドと認めるのか、考えて見れば線で示される筈の音の高さを、我々は五線譜上の12種の点でしか示せない。1オクターブを12等分してハイ、標準の音に合わせて下さいね、なんてそれは12種類の点と一致しないその他の音を大量に捨てる行為でもある。正確さを極めれば、点で示されない音程は無限に増え続けるが、12種類のどの音かでなければ五線譜上で示されず、親しまれることは無いのである。単にreechoが音を合わせられないから、外れた音のままで許されたいだけなのだが、その「点」で示されない音を捨て去るのは正直苦しい。竹の長さを12種類のどの音かに合わせる努力をしていると、面白みが無くなると言うのは滑稽だが、12種で表現し切れない絶妙な音のハーモニーが認知・伝達・享受され得ないことへの不満が積もって来る。竹をコンロで炙ると甘い香りが漂って気分が良く、竹の微妙な音色がくすぐったい今日この頃である。

0 件のコメント:

コメントを投稿