2010年5月14日金曜日

犬が来た。

reechoが久々に日本で電車に乗って改めて実感したのは、reechoを見ると突然に激しく咳払いを始める人が多いということである。「皆で注意し合わなきゃ駄目じゃん!」と懸命に咳払いをする人もいれば、「え、そうする人少ないし」と実際に口にして友達の咳払いをたしなめる人もいたり「私が変わらなきゃ駄目かなぁ~」とお互いに言い合ったり。「みんなでチクリ合おうよ」と協力を呼びかける友達に向かって「気を付けてねっ!」と注意する人もいて、その人それぞれの対応の仕方が見物だった。正義感に燃えて注意することに一生懸命な人と、人を注意するのをためらう人との差は結局思慮の有る無しだと思う。悪人を厳しく注意することが必ずしも良いことであるとは限らない、と配慮する人にもそれなりの正義感を感じてしまうのだけれど。「自分が正しければ見境無く何でもやる」という正義に対する信念と慢心が、分別の無い子供の様に見えてしまうのも奇妙なのだけれど。「悪いものは悪いと主張する正しい日本人」が突然に凶悪に見えてしまうのもなんだか物悲しい。

台湾へ行って、日本人が台湾でどれだけ悪く思われているかを知った。遠くから見ると随分親日的に見える台湾だけれど、実際に行って見ると「日本人と親しくしたくありません」な台湾人が結構いることに気付く。「台湾って日本語喋れる人が多いですよね。」と言うと、怒る台湾人が多いのである。「何でワシらが日本語なんかしゃべらなきゃいかんのじゃ!」と、突然に憤慨されて困惑したり。「台湾って日本で作られたドラマや映画が凄い沢山流されているんですね。」と言うと、国交断絶時代には絶対流しちゃいけなかったんだし『今もあわよくば流すべきじゃない』みたいな意見を述べる、両親が無理やり日本語を学ばされたというおばさんがいたり。親日的な人しか日本には来ないから、「日本人の支配に対する憤り」は、実際に台湾へ行かないと分からないと思う。

行く前から日本の統治に対して「感謝半分恨み半分」という話は聞いていた。けれども実際に現地の台湾人と話をしてみると、恨みの方が強いというか、恨みで感謝が完全に食い潰されている印象を受け。やった良いことが全てご破算になる悪いことって一体どんなことなのかと思うけれど、要するに日本人は台湾で威張り腐っていたのである。「台湾へ来た日本人は皆ことごとく威張っていて厳しくて、八田与一にしても例外では無かったに違いない」と思わせる程、ともかく日本人は威張っていたらしく。どんなに良いことをした日本人でも「知らないよ」とそっぽを向かれる羽目になっているのは悲しかった。「そんな人知らないよ。僕らが知っている日本人は威張り腐る恐ろしい連中ばかりだったからね。」

そんな台湾人の中にも、日本人に親切な人は多い。特に熱心な仏教徒に多い。彼らは、困っている人にも優しいけれど、人を困らせる人にも優しい。要するに、日本人であってもなくても、どんな人にも見境無く親切にするので、日本人に対して優しいのである。仏の慈悲というのは、困っている人には勿論、人を困らせる人にも及ぼされるべきだと考え実行している人が、台湾の仏教徒には多い。確かに、仏の慈悲を必要としているのは困っている人だけではなく、人を困らせる人でもある。人を困らせる人を変えるのが仏の慈悲であって、自分がその慈悲を実践するべきだと思って優しくしてくれるのである。彼らは、本当に、慈悲が溢れる仏陀を拝むとそれだけで心が躍り、嬉しくて楽しくてたまらなくなる様子だ。勝手に「満ちている」彼らを見ると、そのいくらでもどんどん湧き出る慈悲に感謝が止まらなくなると言うか。単に何もしなくても作物が勝手に実る南国の陽気さというのもあるけれど、日本の厳しい仏教に疲れた日本人には、是非台湾へ行って台湾の明るい仏教を見てもらいたいと思う。台湾のお墓は、デザインから見ても日本のお墓からは想像もつかないほどに明るくて可愛い。

八田與一の墓前祭に参加して思ったのは、遠くから来る人に熱心な仏教徒が多いということだった。「仏陀の慈悲を体現したあっぱれな人」という理由で八田與一を尊敬し、自分も仏陀の慈悲を体現したいと切実に願っている人が多く。遠くから観光で来る「仏陀マニア」ではない人々は、どちらかと言うと八田與一の功績を称えると言うよりは、地元の人による汗と涙の協力を称えていた。確かに皆で作ったダムであって、言い換えれば無理やり作らされたダムであって、これもまた「感謝半分恨み半分」ということになるけれど、実際に恩恵はあったのだから、とりあえずここでは恨みと感謝は区別して感謝を表現しようということで。日本と台湾の友好の機会でもあるから、墓前祭では恨みは出さないようにと努めている印象もあり。reechoが「日本人を恨んでいる台湾人も多いみたいですね」と現地の人に聞くと、「台湾人は全然日本人を恨んでないよ」と言いながら、涙を拭うしぐさをする。「恨んで無いけど辛かった」と言いたげな雰囲気に、きっと日本人のことだから、自分が信じる「正しいこと」を台湾人に強要する為に随分厳しいことをしていたんだろうな~と思わされ。きっと、良かれと思ってやったことが迷惑だなんてこれっぽちも考えていない日本人も多かったのだと思う。

昨年等は、ご丁寧に馬英久さんが墓前祭に来て、日本に対する恨みを強調するような演説をしたという噂を、ある方のBlogで拝見したけれど。あの場で恨みを強調して地元衆の票が得られるのもまた事実なのだなぁ~と感じられてしまうこともあった。我々日本人が多く座る来賓席の装飾が思い切り壊れていても、「全然構わない」のだそうで。そんなことをわざわざ指摘するreechoも日本人として恥ずべきなのだろうけれど、会場を準備する主催者側に「来賓の装飾なんてどうでも良い」と言われると、例え「見た目じゃないよ心だよ」と言われていたとしても、侮蔑に値する日本人は引っ込んでろと言われているような感覚に襲われ。偉い人を蔑んで身分の低い人に親切にした当時の日本人の意志を継いでいるとも言えるのだけれど、当時から、現地の人はプライドが高くて日本人の言うことを聞かなかったと言うし、やっぱり日本人は「悩む八田與一」の銅像を見ながらどこまでも思慮と考察と反省が必要なのだと思わされ。ちなみに、「考える八田與一」の銅像を考案して作製させ、戦時中に現地の人々に隠すことを指示したのは紛れも無く赤堀信一で。現地で悩み続け、運良く現地の人々に守られて生きて日本に帰って来た曽祖父に、そして曽祖父を守ってくれた現地の人々に、ありがとう、と言いたくなった。戦後、沢山の日本人が台湾で虐殺されていたことを考えると、幸運だったとしか言いようがないのだけれど。

現在、利益を度外視して(赤字覚悟で)、昔八田與一一家が住んでいた家と赤堀信一一家の住んでいた家(二軒並んで建っていた家)を再建中だと言う。墓前祭当日の朝に、関係者一同で再建中の現場をバスで見学に行った際、家を設計する女性建築士の方から「赤堀さんの家」「赤堀さんの家」と何度も呼ばれてどきどきしてしまったのだけれど。今の赤堀さんの家も建ててくれると嬉しい、とか言ったら「なめんじゃねぇ!」と言って飛び蹴りされますか(泣)。家が壊れて困っているのは昔の赤堀さんちではなくて今の赤堀の家なんですけど(涙)。

それにつけても台湾で感動したのは、台湾の犬が謙虚なことだった。台湾では日本と大陸の支配について「犬が去って豚が来た」と形容するのを以前から聞いてはいたけれど、台湾の犬はreechoが考えていた犬とは全然違う生き物だった。姿かたちではなく生き様が違うと言うか、躾けられ方で全く別の生き物に見えると言うか。台湾で生きている犬を見たら、日本が犬に例えられていることに嬉しくなった。台湾には、自分を人間だと勘違いしている阿呆な犬が皆無で、人にじゃれ付かないし咬まないし吠えないし引っ掻かない。全く人に手を出さない大人しい犬ばかりなのである。人を脅す為だけに犬を配置している場所もあって、そこでは犬がどれだけ威嚇するのに相応しいかもよく分かる。でも豚は豚で、役に立たないようだけど食べると美味しいんだけどね。好き嫌いはあるけれど、大陸って台湾人が食べても美味しいんじゃないかと思ってしまったり。ひそかに大陸を食べて太る台湾人が最近増えてるとか言うのはやっぱ不謹慎ですか。

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